相変わらずいらない物を処分しながら暮らしている。
釘やねじ、ケーブル類を捨てられるようになったのは大きい。
「必要な量は決まってるし、どうせ付属でついて来るもの」
というジャッジの仕方はとても有用だ。
そして物を買う際には大分逡巡するようになった。
「なくてもなんとかなる」と「あってもいい」の比重が逆転した感じだ。
と言いつつ逆に後で燃えるゴミで処分できそうなものはつい買っちゃったりもするのだけど。
要するに小川君は視点を変えてくれたわけだが、同じような事は片づけ関連の本にも書いてあるようだ。
では本を読めば出来るようになっていたかと考えると、どうもそうは思えない。
考え方だけでは「ではどうして(いらないと)わかっていながら今まで出来なかったのか」の答えにならないからだ。
であるからして、小川君は「モモ効果」を担ってくれたのと思われる。
ミヒャエル・エンデの作品「モモ」の、無口で心の澄んだ主人公モモ(小川君の心が澄んでいるいるわけではない)と話していると、モモは黙って聞いているだけなのにみんな自分の心や考え方がスッキリして帰って行く、というアレである。
捨てる(という選択)と捨てない(選択を保留する)というのは随分と違う行為なので何かきっかけがないと一人でスイッチするのは難しいと思う。
ので、やっぱり来てもらって良かったなは。
また彼のお好み焼きも食べたい今日この頃です。
釘やねじ、ケーブル類を捨てられるようになったのは大きい。
「必要な量は決まってるし、どうせ付属でついて来るもの」
というジャッジの仕方はとても有用だ。
そして物を買う際には大分逡巡するようになった。
「なくてもなんとかなる」と「あってもいい」の比重が逆転した感じだ。
と言いつつ逆に後で燃えるゴミで処分できそうなものはつい買っちゃったりもするのだけど。
要するに小川君は視点を変えてくれたわけだが、同じような事は片づけ関連の本にも書いてあるようだ。
では本を読めば出来るようになっていたかと考えると、どうもそうは思えない。
考え方だけでは「ではどうして(いらないと)わかっていながら今まで出来なかったのか」の答えにならないからだ。
であるからして、小川君は「モモ効果」を担ってくれたのと思われる。
ミヒャエル・エンデの作品「モモ」の、無口で心の澄んだ主人公モモ(小川君の心が澄んでいるいるわけではない)と話していると、モモは黙って聞いているだけなのにみんな自分の心や考え方がスッキリして帰って行く、というアレである。
捨てる(という選択)と捨てない(選択を保留する)というのは随分と違う行為なので何かきっかけがないと一人でスイッチするのは難しいと思う。
ので、やっぱり来てもらって良かったなは。
また彼のお好み焼きも食べたい今日この頃です。
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